Interview : 2022年12月31日 / 2023年1月1日/ 2023年1月3日
仏蘭久淳子(フランス移住者)インタビュー
実施日:2023年1月1日
公開日:2024年4月1日
場 所:仏蘭久淳子氏宅
語り手:仏蘭久淳子(ふらんくじゅんこ)
聞き手:小関彩子
【O】 よし。では、待ってくださいね。録音の機械をスタンバイさせますと。こうで。
【F】 あなたにはほんとにお茶も入れないでね。私のほうが座り込んじゃって。
【O】 お茶があったほうがいいですか。
【F】 いえ、それは、だって、外からいらした方がちょっと一口お茶と、喉を潤したいと思われたら。思われたらどうしますか。
【O】 終わってから。お仕事が終わってから。じゃあ、録音始めました。では、録音しても良いという許諾が得られましたので録音を始めます。
本日は2023年1月1日です。
【F】 そうだ。
【O】 では、改めましてお名前をお願いします。
【F】 私の名前?
【O】 はい。
【F】 フランク?淳子と言っていいのか、淳子?フランクって言っていいのか。
【O】 で、生まれた年をお願いします。
【F】 1900のmille neuf cent trenteです。
【O】 1930年です。では、よろしくお願いします。昨日は東京でベルナール先生と出会って結婚されるっていうところまで伺いました。なので、今日はその続き、どんなふうにして日本を後にしてフランスに移住されたのか、その辺りからお話しを伺いたいと思います。
【F】 だって、結婚したら一緒に住むわけでしょ。その当時フランクは留学生だったのよね、日本に。そして、だから、結婚して、そりゃやがて彼はフランスに帰るっていうことは予定されてたわけでしょ。
【O】 確か1956年に結婚されて、で、57年にはフランスに帰られています。
【F】 56年に結婚して?
【O】 はい。
【F】 57年にフランスに来たの?
【O】 はい。
【F】 そんなに長くじゃないと思いますけどね。どうしてかな。
【O】 だから、多分東京で数カ月はご一緒に過ごされて、それからフランス。
【F】 東京で過ごしたのが3年ぐらいじゃなかったかな。
【O】 いや、これだと1年未満です。
【F】 そう? 1年未満。そう?
【O】 はい。で、いよいよ東京引き払ってフランスに引っ越すぞとなりました。どんなお気持ちでしたか。
【F】 当時私、幾つぐらいだったのかな。24、25歳かな。
【O】 26か27か。
【F】 あんまり大してものを考えるわけじゃないでしょ。何となく冒険好きの女の子という感じじゃなかったかな。
【O】 冒険好き。じゃあ、フランスに行くのも冒険ですね。
【F】 そう。深いこと考えませんよ、その年頃には。何が自分を待っているか。アバンチュールですね。
【O】 で、実際何が待ってましたか。
【F】 パリで?
【O】 そう。
【F】 そりゃ、複雑ですよ。いろんな意味でね。でも、若いってことは面白いことで、あんまり深くものを考えない。私が特別に軽々しかったのかもしれないけど。
【O】 まずお荷物を送り出して、で、もうあの時代は飛行機ですね。フランスに来たのは。まさか船?
【F】 船だったと思うよ。
【O】 船だったんですか。
【F】 スエズ運河を通ったもの。
【O】 おお。そうですか。船。
【F】 横浜を出て、船は神戸に寄って。だから、やっぱり船だ。そして、その次は香港で、その次はコロンボだったかな。
【O】 インドの。
【F】 そう。
【O】 スリランカ。コロンボ。
【F】 そして、インド洋を渡って。暑かった、インド洋。そして、スエズ運河を通って、そして、スエズ運河の。あれ何ですか。スエズ運河ですよね。そして、それを通ったらmméditerranéeですよ。海の色が途端に青くなるのよね。
【O】 そうですか。
【F】 その前の運河はちょっと白っぽい感じでそんなに感激がないんだけど、あそこを出て、スエズ運河を出てギリシャの海だわね、その次は。あそこのエーゲ海っていうのかな。
【O】 エーゲ海。
【F】 海の色が素晴らしいんだよね。青い海の色がね。Méditerranéeって。
【O】 地中海。
【F】 その時の感激覚えてるわ。
【O】 で、船は、マルセイユに着くんですか。どこに着きましたか。
【F】 マルセイユ。
【O】 マルセイユ。
【F】 そこから汽車で。
【O】 汽車で、ずっと。
【F】 うん。上のほうに。
【O】 じゃあ、かなりの長旅ですね。
【F】 そうですよ。
【O】 いよいよ東京出てからパリに着くまで。
【F】 そう。どれだけ正確に覚えてませんけどね、結構長かったわね。でも、面白い旅でしたよ。それ以後、もうあんまりないわね。そういうのはなくなっちゃったんじゃないかな。そういう長旅のヨーロッパ行きっていうのは。
【O】 ないと思います。で、初めてフランスに着きました。マルセイユに着きました。フランスの印象はいかがでしたか。もともと行ってみたいと思っていたフランスですよね。
【F】 でも、そんな、物語のような印象はないのよね。結局軽々しい女の子じゃなかったかな、私自身が。ほんとにそうよね。小さい時からそうだわね。軽々しいわね。やってみようと思ったらやっちゃうっていうほうでしょ。
【O】 で、やっちゃったんですね。
【F】 そうですよ。だから、多分失敗もあるだろうし、冒険もあるだろうし、ご迷惑を掛けたこともあるだろうし、いろいろとあっただろうと思いますけどね。でも、運は良かったわね。要するに、私、自分の生涯考えてみると、みんな私の周囲の人たちは、開放的というのとちょっと違うんだけど、理解があるなんていうのはまたちょっとちょっとちょっとちょっと違うんだけど、ごく自然だったのよね。何もかも。自分で。受け入れも自然に受け入れられたんでしょうけどね。そしてほら、ベルナールの生きていた環境というのは、結局東洋学の世界でしょ。だから、先生は、アグノエル先生っていったんですけどね。
【O】 アルノー?
【F】 アグノエル。
【O】 アグノエル先生。
【F】 うん。ソルボンヌで中国学じゃない、日本学、既に日本学の講座を持ってた方なんですよ。そして、私の結婚した相手の。その頃はその、何ていうか、少なかったのよね。日本に対する関心っていうのは。
【O】 そうでしょうね。
【F】 だから、中国学の人は多かったの。それで、先生も日本学の先生1人いたんだけど、中国学やったりしていたし、学生の仲間はみんな中国学をやってたし。日本学やってたの、日本学に入ったのは、ベルナールが初めてってわけじゃないけど、珍しい例だったのよね。
【O】 そうでしょうね。
【F】 その当時でね。
【O】 そもそもベルナール先生はなんで日本学に興味を持たれたんでしょうね。
【F】 何度も聞いたわね。聞いたけど忘れちゃった。何かあったのよね。日本学。何度も聞かれてましたよ、それは。なぜ日本学なんですかっていうことをね。
【O】 でしょうね。
【F】 それで、言ってたけど、私覚えてないわ、正確に。昔から東洋というものに興味を持ってたんだ。そういえば。そして、中国に関心を持ってた。中国に。そして中国、だから、中国学というのはフランスで歴史が古いんですよ。
【O】 そうでしょうね。
【F】 日本学は新しい。で、中国学に入ったら中国は面白いんだけどその向こうにまた別の日本という国があるっていうことを彼は発見したのね。それで、初めは中国学のつもりで入った。それで、日本学というのに目を開いて、それで日本学に入っていったのね。学生なんてほんとにほとんどなかったんじゃないかな。先生と2人で。
【O】 マンツーマンで。
【F】 そう。
【O】 それで、中国語と日本語を学ばれて、サンスクリットもやったって聞きました。
【F】 そう。そん時の先生が、「あなたはほんとに日本学をやりたいのなら中国学はもちろんのこと、それからサンスクリットもやりなさい」と。先生に言われたらしいですよ。
【O】 そうやって、戻しますが、マルセイユからパリに着きました。そして、パリに着いて、このフランク家に入られたんですか。
【F】 そうです。
【O】 この場所。
【F】 そう。3ème étageにいたんです。
【O】 この建物の中の?
【F】 うん。というのは、そこに、だから、ベルナールは、お父さまを亡くして母親と2人で住んでたんですよ、3ème étageに。
【O】 そうでしたか。その時点でもうお父さまは亡くなってたんですか。
【F】 うん、亡くなってたの。だから、私が来た時に、ベルナールのお母さんは、このアパルトマン割合広いんですよ。広いって広い、大きなアパルトマンじゃないけれども、部屋が5つか6つあるわけで。で、ベルナールのお母さんが向こうっかわに、庭のほうのあちらに住んでいて、そして私たちに、「じゃあ、こっち使いなさい」って言って。それで、3ème étageに住んでたんですよ、しばらく。
【O】 でも、その頃は、この建物全部がフランク家のものだったと聞いていましたが。
【F】 そうでしたかね。
【O】 でも、同じ3階に、お母さまもご夫妻もみんな一緒に住まわれたんですね。
【F】 そう。一緒に住んだのは、一緒に住んだっていったって数カ月かもしれません。ここを空けてもらう間に。ここに人が住んでたんですよ。
【O】 ここってのは、今のこの1er étageですね。
【F】 そうそうそう。それで、お母さまが、出てもらいましょうと。そして。
【O】 出てもらったんですか。
【F】 出てもらったの。で、時間かかったんですよ、結構。なかなか出なくって。1年ぐらいかかったかもしれないです。で、やっと出てくれたんで、それでここに降りてきた。
【O】 お2人だけ?
【F】 うん。
【O】 ベルナール先生と淳子さんと2人だけでこのアパルトマンに暮らし始めたんですね。
【F】 うん。
【O】 そうでしたか。じゃあ、その最初の1年間、お母さまと同居した感じはどんな感想ですか。
【F】 どうって、私って割合無頓着っていうか、何でも平気でやっちゃうほうで、別に気を使うとか、そんなことはなかったですね。向こうが結構気を使ってたんじゃない? そして、ベルナールが、全くあの人は日本びいきというか、日本に、とにかく日本というものに惹かれてたわけですね。没頭してたわけです。だから、私はベルナールとの生活で違和感っていうものは全然なかったです。
【O】 ちなみに、お2人で話される時は日本語でしたか。
【F】 そんなこと意識してなかった。
【O】 お母さまとはフランス語になりますね。
【F】 もちろんそうです。
【O】 その時点で淳子さんのフランス語は、お母さまと話すのに不便がなかったんですか。
【F】 そりゃ、恐らくフランス人の目から見りゃ、耳からすれば、その時に私が話していたフランス語なんていうのは全くブロークンっていうんですか。めちゃくちゃとはいえない。だって、学生時代からフランス語はやってましたからね、芸大で。だから、むちゃくちゃじゃなかったと思うんだけど、すらすらじゃないわよね。
【O】 でも、こうやってフランスに来たら、夫であるベルナール先生だけは日本語が話せるけど、それ以外全てフランス語の世界に飛び込んだわけですね。
【F】 そりゃそうね。だけど、夫が日本語一生懸命に勉強していて、一生懸命に日本語を話そうとしていれば、そりゃ、そっちに引かれるっていうか、フランス語よりも日本語、家庭では日本語。多分ベルナールはカタコトだったのかもしれないけども、努力してたわけですよね、一生懸命に。日本語を。
【O】 でも、先生は日中はお仕事に行ってしまいます。
【F】 それが、そんな生活じゃないのよ。
【O】 学者さんですからね。
【F】 大抵家にいるんですよ。
【O】 家でお仕事で。確かに。
【F】 大抵書斎にいるんですよ。
【O】 じゃあ。
【F】 だから、不便ということも別に。語学で不便っていうことは、私、ほとんど経験ないですね。
【O】 そうでしたか。
【F】 恐らく、私の相手のほうが努力してたのかもしれませんけど。
【O】 でも、そうやって一応通じ合ってる、特段問題なくコミュニケーションはできたんですね。
【F】 そう。コミュニケーションで不便だったということはないわね。私自身も一応日本で学生時代からフランス語やってたでしょ。
【O】 そうですね。じゃあ、初めてフランスに来てカルチャーショックだったとか、全く違う世界に飛び込んだわけですが、そんなにカルチャーショックのようなものはなかったですか。
【F】 なかったですね。だって、ベルナールが一生懸命に私を理解しようとか、私に同化しようとっていうか、あっちが努力してたわけですよ。
【O】 そうしますと、ベルナール先生の周りの東洋学をやっている方々のコミュニティーとのお付き合いはかなりありましたか。
【F】 ありましたよ。お付き合い、中国学の人たち。日本学は少なかった。ベルナールだけだった。それからベルナールの先生ね。アグノエル先生って。ソルボンヌで最初に日本学の講座を持った先生なんですけどね。
【O】 持った方。
【F】 その先生。だから、よくその先生にはお会いしたり、一生懸命に向こうが努力してくださってたわけなんですよ。それが日本学のnoyauですよね。核。核になってる。核心になってる。だけど、その横に中国学の連中がいたわけです。そのほうがずっとおっきかったわけですよ。日本学では、それこそ2、3人、せいぜい4、5人という専門家になろうというような人たちが。それぐらいしかなかった。だけど、中国学はちゃんと、もう、19世紀からありましたから、伝統もあるし。で、やってる人も多いし。お付き合いは、日本学は中国学の尻尾みたいな、付け足しみたいなものでした。
【O】 その学者さんの先生方とは、このおうちに遊びに来られてお付き合いがあったんですか。
【F】 そうね。よくしょっちゅう会いましたね。今よりもその頃のほうが、昔ながらのお付き合いというか、昔式の。だから、よくお食事に呼ばれたり、こちらがお呼びしたりとか、それから、先生方、先生っていうよりも専門家、SinologueとかJapanologue。Japanologueはほんの2、3人ですが。Sinologueは結構いましたから、しょっちゅういろんなréunionがあるわけですよ。レセプションだとか、食事にいらっしゃるとか。そういうお付き合いがしょっちゅうあったんですね。
【O】 でも、その頃、その各先生方の夫人方っていうのは、まだ日本人や中国人の方っていらっしゃいましたか。
【F】 その人たちの同伴の人たち、どういう人たちだったんだろう。
【O】 確か、日本における日仏会館でベルナール先生は、日本人を妻とした最初の人だったと昨日伺いました。日仏会館にはたくさんのフランス人の留学生がいたわけですが、で、ベルナール先生が初めて淳子さんを結婚相手に。
【F】 結婚、私が言いました?
【O】 はい。初めてというのは言い過ぎでしょうか。
【F】 さあね。何て言っていいかな。それぞれの人に恋人がいたり付き合ってる人がいたり。付き合ってましたよね、日本人と。でも、結婚したというのは、そういう人は結婚していた人たちもいますよ。その当時から。だけど、私なんか、私、私とかベルナール、別に特殊なことだとは思ってなかったけど、世間一般から見れば、そりゃやっぱりちょっと特殊な結婚というか付き合いというか、そういうものだったでしょうね。
【O】 今考えてみれば、1957年というのは、戦争が終わってまだ12年なんです。
【F】 何年?
【O】 12年。
【F】 12年。
【O】 だって1945年に戦争が終わって、そこから12年しかたってないわけですね。
【F】 いや、12年っていうとおっきいですよ。
【O】 そうですか。
【F】 うん。あの当時の日本の社会の変化。ずっと長い間閉ざされてたわけですよね、日本という国は。それで、戦争が終わって、ダーッと外国っていうかが入ってきたわけですよ。そして、日本自体が何というか,かつえていたわけですよ。
【O】 外国の文化に。
【F】 外国の知識、外国に。外国との付き合いっていうか、外国というものに対して。だから、ちょっと考えられないかもしれないけど、非常に開放的に外国の文化と外国人とか受け入れてましたね。というの、でも、ひょっとしたら特殊な環境だったかもしれませんけどね。日本全体の傾向から考えれば。特にフランス、いいことか悪いことか知らないけど、日本の絵描きさんたちはみんなフランスに行きたがってたわけですよ。
【O】 そうでしたね。
【F】 そして、大概の人は来たわけですよね。だから、フランスに対する違和感っていうか、そんなものはあんまりなかったんですね。バーッと受け入れてバーッと入っていったという感じですよね。
【O】 では、逆はいかがでしたか。つまり、フランスに来られたら、フランス人から見たら12年前までは戦争していた相手なわけです、日本のというのは。やっと敵国同士だった戦争が終わって、まだ12年しかたっていなかったわけですが。
【F】 あなた、12年っておっきいですよ。
【O】 そうですか。
【F】 あの当時の社会の変化っていうことを考えれば大きいです。変化。早かったわね、どんどん。
【O】 じゃあ、フランス人にとっても、日本人に対する敵対的な感情というのはあまり残ってない感じでしたか。
【F】 それは知らないです、私。だけど、私の感じたあれでは、敵対的な感情、全くなかったですね。私には全然そういう環境はなかったです。それは既に中国学とか何とかで、そういうmilieuだったからかもしれませんけども。戦争してた国から来た子だっていうふうな、そういう目で見られたような経験はないです。それは1度だけ、スイスで。スイスで、あの当時、夏スイスで過ごしたことあるんですよ。一夏。そのスイスのホテルの人が、私を日本人、敵対国だった日本人、そういう国の人だというふう、目で見てたという。それが、私自身もそれほど感じなかった。ベルナールがそう言ったの。へえと思いましたよ。だから、私自身、戦争してた所から来たという、そういう目を感じたことないわね。
【O】 この環境にもよるでしょうね。
【F】 そうかもね。
【O】 淳子さんが属していた社会っていうのが、また。
【F】 そうね。
【O】 では、画家としてのキャリアについてもお伺いしたいと思います。芸大で絵画を学ばれて、画家としてのキャリアも作っていこうと考えられていたと思いますが、でも、ご結婚するということと、で、フランスに移住するという大きな変化を通じて、画家としてのお仕事はどんなふうに進んでこられたんですか、ここまで。
【F】 私自身、画家としての立場を離れたことはないですよね。主婦になろうが、子どもを産もうが、私の生活の主体っていうのは絵描きだったんです。
【O】 では、ご結婚当初からずっと絵を描き続けておられましたか。
【F】 もちろん、そうです。
【O】 アトリエを1つもうご自分のものにしていたんですか。
【F】 最初はどうだったかな。いや、最初は5階に1部屋持ってました。昔の女中部屋。そこで仕事してました。5ème étageで。それで、1部屋空いたから降りてきたんだわね。
【O】 では、5階の独立したアトリエでご自分の仕事をなさってたんですね。
【F】 そう。屋根裏部屋でね。
【O】 じゃあ、ベルナール先生がここの書斎で仕事をされ、淳子さんは5階で仕事をされた?
【F】 そう。
【O】 というふうなことですか。もともとパリに留学したいなというお気持ちもあったということですが。
【F】 だけど、あの当時の、戦争が済んでまだそんなにたってないわけですよね。そして、美校の学生であればみんなそう思ってましたね。行きましょうと。
【O】 そうでしょうね。
【F】 でも、行きましょうって、行きたいなという気持ちと、実際行きましょうというのとはまた全然、現実と違いますからね。偶然ですね、私。
【O】 じゃあ、留学という形ではなくパリに来られましたが、では、もうパリではいわゆる美術教育を受けるということはなかったんですね。
【F】 ええ、私はなかったです。やっぱり、子どもができたのいつ頃かな。私の知り合いなんかで、絵描きさん、若い絵描きさん、こちらの美校に行ってましたよね。みんな行きますよね。だけど、私はそういう余裕はなかったです。学校に行く。で、学生たちが一緒に、学生って、若い学生たちが集まってそういう集まったりする機会があるでしょ。そうすると、終わったらみんな、じゃあ、どっか行こうとか言ってみんな行っちゃうんですよ。で、私は、それで、早く帰らないと。家庭がありますからね。1人だけ離れて早く帰ってきて、私も付いて行きたいなと思いながらいつも帰ってきましたよ。
【O】 じゃあ、でも、日本からパリに留学している日本人学生とのお付き合いっていうのがそういうふうにあったんですね。
【F】 そうそうそう。
【O】 後で飲みに行く前の、最初はこれ何をしてるんですか。皆さんで集まって。
【F】 ただしゃべってるだけですよ。
【O】 じゃあ、留学生さんたちと淳子さんたちは大体同年代の、確かに。
【F】 そうそう。
【O】 絵描きさん同士というお付き合いはあったんですね。
【F】 だから、日本人の絵描きさんたちというのはみんな自由だし、面白くやってたわけでしょ。私は早く帰らなくちゃ。やっぱり家庭があるからね。やってましたよ。
【O】 じゃあ、確かに、いろんな留学生が来ては帰り、来ては帰りするのと、ずっとお付き合いはあったんですね。
【F】 うん。
【O】 お子さんが生まれるというのは、やはりまた大きな変化であったと思いますが。
【F】 どうですかね。そりゃ、独身でパリに留学してる連中と私とは違いましたよね。私は、時々皆さん集まるわけですよね。誰かが展覧会するとみんな見に行って。そして、その後でちょっとカフェに行ってっていうふうな。ところが私は帰らなくちゃいけないわけです。他の連中はみんなワイワイ言って楽しんでるんですよね。私はとにかく両股掛けてるわけで。家庭と絵描きとの付き合いの。だから、残念だなと思いながら、私帰らなくちゃいけないわって言ってさよならした。いつもそうでしたよ。
【O】 それでも、お出掛けしてる間は誰かが赤ちゃんを見ていてくれたんですか。
【F】 そうですね。だってベルナールのお母さんがいたからね。
【O】 お願いして。
【F】 そう。それから、ベルナール自体も家でして、仕事してるでしょ、ずっと。何とかなったんですね。
【O】 外国で出産するというのは、なかなかドキドキするものだと思いますが。
【F】 出産する?
【O】 はい。
【F】 そりゃ日本で出産するのと同じですよ。
【O】 そうですか。
【F】 あれ、割合至れり尽くせりでしたね。お産に対しては。日本での経験はないけど、なかなか丁寧に診てくれてましたよ。
【O】 この近くの病院ですか。
【F】 まあね。17区だったな。
【O】 で、結局、ルイさんと、そして次いでルネさんとってお子さんが2人生まれたわけですが。一応、フランスにおける日本人としてのアイデンティティーについてもお伺いすることになってるので、1つお尋ねしたいのは、お2人のお子さんの言語環境はどういうものだったんでしょうか。つまり、お2人とも日本語をあまり教育してらっしゃいませんよね。つまり、ご家庭の中はすっかり会話はフランス語だったんですか。
【F】 そうですね。
【O】 で、2人のお子さんを日本語話者に育てようというふうには考えられなかったんですか。
【F】 日本風にしようと?
【O】 日本語を話せるように。バイリンガルにしようというふうには考えられなかったんですか。
【F】 私は割合無責任で、なるようになるっていうか。だから、家の中ではベルナールと日本語だったりフランス語だったり、しょっちゅう意識してないわけですよ。だから。
ちょっとお手洗いに行って。
【O】 いったん切ります。
(00:39:12)
【O】 これは、こうで…。では再開します。先ほどから、お子さんが生まれた後のことを聞いています。ルイさんとルネさんが相次いで生まれて、この二人をバイリンガルで育てよう、日本語とフランス語と両方話せる人に育てよう、という風には思われなかったんですね。
【F】 思わなかったんですけれど。
【O】 だからルイさんは今でも全く日本語だめですね。
【F】 そう。分かるような顔してますけどね。少しは分かってるんですけどね。だけどバイリンガルじゃないですね、二人とも。
【O】 家族の中の言語環境っていうのは、ご家族によっていろいろだと思うんですが、フランク家は単に淳子さんが日本人というだけではなくて、お父様のベルナールさんも日本語ができるわけですよね。家庭の中では結構日本語が飛び交ってたと思うんですが、でも二人のお子さんは全然日本語を習得せずに成長したんですね。
【F】 そう。
【O】 これは何でそうなったんでしょう。
【F】 私は、子ども達に日本を押しつける気持ちは全然なかったんです。フランス人として、ちゃんとした…。というのは、時々同じような合いの子ですかね。全く純粋のフランスの教養というものと、フランスのそういうものを持ってるのと、それからちょっと混ざって完璧じゃないというと悪いけど、そういう傾向もあるんですよね。私は自分の子ども達を日本通とか日本的とか、そういうものに育てるよりも、フランス人として、完全というわけじゃないけども、全く上等っていうわけでもないんだけど。ある程度の高さでフランス的でいいと思ってたの。
【O】 それはベルナール先生も同じように考えておられたんですか。
【F】 そうだと思いますよ。だから日本を押しつけるってことはしなかったの全然。
【O】 例えば週末になると、日本語学校に行くなんていうお子さんもいると思いますが。
【F】 そうそう。どれが良かったか、それは分かりませんよ。だけど私の見た例として、結局日本との間っていうより中国だわね。親がフランス人で中国に関心を持っていて、中国文化を子どもに伝えようとしよう。そういう親もいるわけですよ。そしてそれが成功すれば非常に立派な結果になるわけなんだけど、失敗すればフランス人、ほんとに純粋のフランスの教養人として見劣りがしないか。だから私は日本を押しつけるってことは全然しなかった。フランス人として立派になってくれればいいと思ってたんですよ。
【O】 お家の中では結構日本語が飛び交ってるわけですよね。
【F】 そう…まあ、飛び交ってるっていうか…。だからそれが良かったとは言わないわよ。子ども達はそれを後悔してるかもしれないけど。二人とも。っていうのはね、親が例えば日本通で日本が好きで、日本というものを家庭の中で子ども達にも理解され、そういう風にしようという傾向、そういう人達もいるわけですよ。日本との関係じゃなくて中国との関係でね。中国語をやってる人の子ども達のね。そういうのを見て私はね、それがどっちがいいか分かりませんよね。小さい時からそういうものに育てて、日本通で日本で。それで成功した例と成功しない例とがあるわけですよ。本当にそうなんですよ。一人前のフランスの教養人として大人になってゆく。私はそっちのほうを子ども達に、そういう風になってもらおうと思ってたんですよね。日本を押しつけて中途半端な日本通っていう風な、そういうものは私があんまり好きじゃなかったんです。フランス人ならフランス人で立派なフランス人。水準以上の教養を持った、ちゃんとしたフランス人。日本人で半分日本人であるからという特典もあれば、特典じゃなく欠点になる例も結構あるわけなんですよ。私はその、フランス人としてちゃんとした、一人前か一人前以上の、そういう人間になって欲しいと。私が日本人だからっていうので、それを引きずって。そういうフランス人には別になってもらいたくないっていうわけじゃないけども、押しつけようとは思わなかった。
【O】 そうでしたか。ルイさんとルネさんは、子どもの頃から育ってくる中で、ご両親の片方がたまたま日本人だっていうこと。どんな風に受け止めて成長されたんでしょうね。
【F】 さあね。
【O】 例えば学校に行ったりすると、ちょっと他のお友達とは違うところがあるわけですよね。
【F】 もちろんそうなんですよ。だけど私は、親が日本人だからという、その特典であり欠点でないけど、ハンディキャップっていうかね。それよりもフランス人として、普通の水準のひょっとして、もっと高い水準でフランス人であるという、そういうフランス人になってくれればいいと思ってたの。
【O】 実際、そうなりましたしね。
【F】 何がいいか分かりませんよ。成功した例と成功しない例と私は見てるわけですよね。
【O】 成功しなかった例ってのはどんな感じなんですか。
【F】 まあ、何て言ったらいいのかなあ、一人前の知識人として、常識的じゃない。やっぱり、こういうとおかしいけど、高い水準の教養を持つということは、両方両股かけるっていう大変なことですよ。聞きかじりじゃない。本当に例えば専門家、ベルナール達のようにその他にも、私は何人かのsinologueって中国系統の人知ってますけど。そういうものに寄りかかった教養というよりも、そういうものに寄りかかった教養っていうのは、ちょっと弱いんですよね。非常に客観的に見てですよ。甘えちゃいけませんよ。親が日本人であるからとか、そんなもんじゃないです。ただそりゃ日本語が少しできるからとかね、日本に対する知識を少し持ってるから。その程度なら行くけど、一人前の中国学者、日本学者になるためには、そういう物じゃ足りないですよね。
【O】 それはそうですね。
【F】 そういうものに甘えちゃ駄目なんですよ。苦労しながらでも本当に日本というものを勉強するのと、親が日本人だったからっていうんで、何となく日本をやるっていう風な、私そういうのは好きじゃなかった。どれがいいか分かりませんよ、子どもにとってはね。分からないけど。私の見た例ではフランスにおける日本学じゃないですよ、中国学なんですけどね。本当に立派な学問的な中国学者っていうのは、何も親が日本と関係、中国と関係があるからなんじゃないんですよね。
【O】 それはそうですね。結果的にルイさんは今に至るまで、特に日本というものに興味を持ったり勉強したり、日本語をマスターしたりってことはなさらないで、フランス人として生きてらっしゃるように見えますね。
【F】 そう。
【O】 反対にルネさんのほうは、後で自らの意志によって日本語を勉強されましたね。この違いってのはまた、どうやって生まれてきたんでしょうね。
【F】 さあね、性格じゃあ。性格的なものかもしれないわね。ルイの場合は、自分が半分日本人だ、半分日本人だわね。だからこそ、いわゆるフランスの文化、フランス人としての教養とか、フランスのそういうものに徹底するっていうわけじゃないけど、そっちの方を選んだっていう感じじゃないですかね。両方やるって大変なことですよ。
【O】 そうですね。
【F】 うん。(※コール音)あ。
(00:14:10)