Interview : 2023年12月07日 / 2024年02月14日
小関洋治(文化財)インタビュー
実施日:2023年12月7日
公開日:2025年4月1日
場 所:和歌山大学紀州経済史文化史研究所
語り手:小関洋治(おぜきようじ)
聞き手:長廣利崇
【語り手プロフィール】
小関洋治
教育長(文化財保存)
1942年山形県鶴岡市生まれ。東京教育大学文学部史学科卒業後,1965?80年和歌山県立桐蔭高校?海南高校教諭,1980?87年和歌山県教育委員会,1987?91年文部省初中局教科調査官(歴史担当),1991?98年和歌山県教育委員会を経て,1998年に和歌山県教育委員会教育長に就任(2007年まで)。2007?13年和歌山県文化財センター理事長、和歌山大学客員教授、関西大学非常勤講師などを歴任。
【N】 それでは、本日は2023年12月7日です。インタビューをさせていただきます。最初に、大変申し訳ございませんが、お名前をよろしくお願いします。
【O】 小関洋治です。
【N】 できましたら生年月日も。
【O】 昭和17年と言いますから1942年ですね、現在81歳です。
【N】 ありがとうございます。本日は、文化財に関係するいろいろなお話をお伺いさせていただきたいと思います。その前に、大変失礼ですが、キャリアに関して教えていただけないでしょうか?
【O】 私の簡単な履歴ということでしょうね。生まれたのが、先ほど申し上げたように昭和17年ってことは、日本が太平洋戦争に突入した約半年後でして、戦中派ということに一応はなるんでしょうか。で、生まれた場所が、父親が学校の教員しておりまして、その関係で赴任先の山形県、ちょうど日本海側、海沿いの、寒村と言ったらいいのかな、漁村、そこの教員住宅で生まれたんです。そこの場所が、のちに市町村合併の結果鶴岡市になってますんで、出身地はどこかと言われた時には山形県鶴岡市ってことになろうかと思うんですが、現在のね。鶴岡って場所は、和歌山の方には馴染みが少ないかもしれませんが、元の庄内藩という江戸時代の藩があった所でして、酒井って殿様がいた、14万石かな、中堅どころの藩で。そこの庄内藩の様子を架空の物語にかたちを変えてたくさんの小説を書いているのが藤沢周平という作家ですね。この藤沢周平作品の中に出てくる海坂藩というのが実は庄内藩のことでして、私の生まれたのは言わば郊外というか、辺鄙な藩の中の一寒村ということになろうかと思います。
それからもう1つ、鶴岡を知ってもらえるかもしれないのは、第二次大戦後、昭和27年に、1つの歌が生まれたんですね。それが『雪の降る街を』という歌でして。中田喜直作曲で、内村直也作詞の、それを高英男というシャンソン歌手が歌って、全国的にヒットした。その『雪の降る街を』のイメージが作られた、言わばふるさとということになっているようでしてね。割と特徴のある場所と言えるんじゃないかなと思います。
ただ、今言いましたように、父親が教員として赴任してた先なもんですから、何年か経って本来のと言うか、本貫地へ戻った。戻って、そこで成長したわけで、小中高校と山形県の中でも内陸部の村山地方、山形市の25キロぐらい離れたような場所で、高等学校は山形市へ通ったんですけどね。
その高等学校時代に、実は私の今日に繋がるような1つの大きな道筋ができたと言いますか。私はずっと英語畑を得意としてまして、高等学校でもESSって言うんですかね、English Speaking Society、あれの部長をしたりとか、自分、大学も英語畑でいこうと思ってたんですけども、3年生になって日本史の授業がありまして、その時に教わった先生が大変な学識の持ち主だったんですね。東大文学部出られたって話なんですけども。私の高等学校は進学校ということで、受験勉強に非常に特化してた授業が大半だったんですけども、その誉田先生とおっしゃる、の日本史の授業は、おそらく入試とは縁もゆかりもないような、今で言えばアカデミックなお話を、高校生の分際に対してとつとつと語られるんです。それをお聞きしながら、こういう世界があるのか、と。
よく、目から鱗がっていう言葉がありますけども、英語は、もちろん外国とのいろいろなコミュニケーションのツールでしょうけども、肝心の自分が生まれ育ってきている日本っていう国はどういう歴史を辿ってきたのかという、教科書とはまた全然違う世界がそこには存在するということを教えてもらったんです。日本の歴史っていうのはこんなふうに見る見方があるのか、ということに、大袈裟で言えば目覚めたと言いますか。それで大学は文学部の日本史学科というふうに、英語を飛ばして、そこから東京のほうの大学へ進んだ、と。そういうのが1つの前半生のポイントでしょうかね。
【N】 高校時代に先生からアカデミックな歴史を教えていただいたというのは、どういう内容だったんでしょうか?
【O】 その先生は専門が中世史だとおっしゃってました、自分では。中世っていうのは非常に分かりにくい時代、混乱を極めていて、教科書の順を追って見ていっても頭こんがらがった気がするんですね。鎌倉から南北朝で、戦国期があるという、そういう混乱の表面的に見える、その内側、何がどう動いてたのかという。例えば、都市の文化では町衆っていうのがありますし、農村へ行けば惣村、郷村という農民の動きがある。あと流通が非常に活発になってくる。それから文化が、茶の湯にしても生け花にしてもお能にしても、その時代出てくる。とにかく、そういうふうに社会の仕組みが複雑で分かりにくくて「暗記しろ」と言われても困るような時代であっても、こういうことから切り込んでいったら深く社会の生々しい動き見えてくるんだよ、ということを、実例を示しながらおっしゃるんですよね。ご自分が得意な分野だったから、尚そうなのかもしれませんけれどね。
【N】 そういうご経験から、東京の大学で歴史を学ばれることになる、とお聞きしたんですけれども、どの時代の歴史を中心的にご研究されたんでしょうか?
【O】 大学では最終的には高等学校で教わった先生と同じ分野の中世史をやることになりまして。戦国末期16世紀ぐらいですか、1500年代に。あの頃はいろいろな群雄割拠、下剋上の時代で、最終的にはそれが信長、秀吉によって終息していきますが、そこの前段階の戦国大名、地方の勢力、その辺をやることになって。で、奈良の郡山、大和郡山に筒井という大名がいたんですね。その筒井ってのは筒井順慶という人物が歴史上割と有名で、洞ヶ峠を決め込んで、勢力の強そうな、勝ちそうなとこへ味方するっていう、ずるい、功利的な人の代名詞っていうふうに使われるんですけども、そのもう1つ前の世代、勢力が固まっていく。その辺りに焦点を当てた在地領主の研究等調べるために、大和郡山へ何遍か来たんですね。それから、こちらとの何となく親近感のような、関西文化圏ってものが。今まで、東北、関東、要するに東日本の人間だった私は、西日本にはもっと深い長い歴史があるということが、実感として分かるようになってきたということが言えるかなと思います。
【N】 大学ご卒業した後は、就職されたのですか?
【O】 私、長男でなかったもんですから、比較的自由に行先を選べるフリーな立場にあったということも考えて、ただ、あまり体が頑健なほうじゃなかったんで、大学時代も、例えば卒論を書くのに病院のベッドで書かなきゃいかんような、そんな場面もあった中で、寒い生まれ故郷の山形県へ戻るのもどうかなというふうに。入院してた病院というのが、私の母親のお兄さんが経営してた銀座の総合病院だったんですけど、私から言えば叔父さんに当たる人が、「お前は体が強くないから、あったかい南国でも行って、転地療養するぐらいのつもりで就職先を選んだらいいんじゃないか」というふうなアドバイスもあったりする中で、たまたま求人があった和歌山県の高等学校の教員を選んだという、そんなことですね。
【N】 和歌山県の高校の教員生活というのは、どういうご境遇とかご経験が。
【O】 私は最終的に教員経験は2つの学校で合計14年したわけですけども、最初の赴任先が県立桐蔭高校という学校で、これも名うての受験校ってことになってたわけですけれどね。やっぱり高校時代、私が教わった先生のアレが耳に残ってまして、受験勉強して大学へ進むのはそれは人生の道だけども、質なり中身をよりレベルアップするにはもっと深い勉強を心掛けないと、所謂受験how-toの勉強ではすぐメッキが剥がれる。無理無体に詰め込んだ知識ってのは雲散霧消するってしょっちゅう言われてたんです。それをそのまま僕は桐蔭高校でも「お前さんたちは、受験勉強オンリーであってはならん」というような感じで。恩師のような深い授業はできなかったかもしれないけども、生徒自らが学ぶっていうか。ちょうど大学のゼミってのありますけども、いろいろテーマを学生が持って発表しますよね、自分なりの。そのかたちを無謀にも取り入れてやりましたね。周りの先生からは「そんなことは止めとけ」とだいぶ非難がましかったし、生徒の中にも戸惑いがありましたけどね。割と勝手に、我が道を、我を通したということでしょうかね。
【N】 桐蔭高校に7年いらっしゃった後、どちらに?
【O】 海南高校へ7年。
【N】 海南高校で7年の後は、どちらに行かれたんですか?
【O】 その後、県教委です。7年、7年の14年間、高等学校の現場にいて。年齢的に言うと、36歳の時に県教委に一本釣りをされたようなかたちです。
【N】 そこから県の教育委員会でずっと。
【O】 そうですね。
【N】 県の教育委員会では、どのようなことを最初はされたんでしょう?
【O】 最初は、高校教育の指導主事っていう職名なんですけど、いろいろなアドバイスをしたり、教師教育の側面があると思うんですが、主に担当したのは進路指導、それから図書館教育などなどでしたかね。
【N】 その後は?
【O】 その後は、県教委でいる間に、今度は文部省から一本釣りされたんです。文部科学省って名前になってますが、そこにも、事務系の人だけじゃなくって、各分野の専門官っていうのが必要なんですね。私の場合は初等中等教育局の中学校、高等学校課の教科調査官という職名で「来い」と言われて、学習指導要領作りを主に担当しました。
【N】 その学習指導要領を担当する時の、何かお話にしてるようなご経験とか?
【O】 戦後の学習指導要領っていうのは大体10年刻みぐらいで改定されていくんですけども、私が行った時にはちょうど、今までの社会科から地歴科、公民科っていうふうに2つに分かれた、その真っ最中というか、随分混乱してたように思いますがね。で、前任者が、どうもならんという感じで働いた後に、急遽呼ばれたということだったと思います。
【N】 文部省で3年間。その後また和歌山の県教育委員会にお戻りになったんでしょうか?
【O】 教科調査官の人たちのいろんな教科の人がいる。その人たちはほとんどが例外なく99%までは出身県へ戻ることはなくって、大学の先生に変わっていったんです。国立大学ですけども、私の場合は3年で和歌山県教委から「戻ってこい」というコールが非常に強うございまして、県教委に。課長になってましたけどね。そっからはずっと県教委の中で学校教育課長、教職員課長、教育企画室長、それから教育次長とか、階段を昇っていって、最終的に55、56歳かな、教育長になったということですね。
【N】 その期間には、文化財に関することは何か従事されていたんでしょう?
【O】 文化財を直接受け持つ課っていうのがあるわけですけども、そこの課のメンバーではなかったわけです。さっき申し上げたような履歴の中に文化財関係の課は含まれてませんけども、役職が階段上がっていくにつれて、そういうのを所管するということあるわけですね。教育次長の場合も文化財関係を所管してましたし、教育長になれば全てを担当するわけですから。そういうかたちの、言わば間接的な関わりはありましたし。例えば、分かりやすい例で言えば、それまで文化財課という名前であったのを文化遺産課に変えたのも私の時ですね。これいろんな考えがあっての上ですけども、これが後半の話に繋がっていこうかと思いますが。ですから、教育長を都合9年間やらしてもらって、その中で文化財との関わりは当然出てきますから。一番在任中に苦い思い出って、これは後のほうで出てきますけども、水軒堤防っていうのがありますよね。あれは紀州藩の徳川さんが防災の意味で作らしたもので、有名な濱口梧陵の活躍した『稲むらの火』の広村堤防よりは200年ぐらい先にもうできた立派なもの。あの水軒堤防の保全の問題がデッドロックに乗り上げて、これが開発か保存かという大きな問題にぶつかるんですけども。あそこに今、県立和歌山工業高校前の四つ角から西へ向かって道路が随分広くできてますが、その延長線上で、それまであった狭い一車線程度の道を5倍に広げようという拡幅の問題があって、それをやるためには堤防を切断しなかったら駄目だという。そういう時には、当然私は文化財としての水軒堤防を守る立場にあるわけですから、開発を道路建設の部局、今は県土整備部って名前ですけど、当時は土木部との間で随分折衝が難航しましたね。
【N】 それは次長の時?
【O】 いや、教育長になってから。
【N】 教育長になってから。で、その当時の、何年ぐらいのお話ですか?
【O】 退任する2年か3年前ですから、平成14、5年かな、木村知事って方がおられた時です。
【N】 そうした文化財保存というような観点と経済的な観点なのでしょうか、そうした道を拡張するっていうようなことは。そういうものの対立が、それはどこでもあると思うんですけれど、どのようなプロセスで折衝を?
【O】 それは、日常的な細かい具体的な話は、土木部の中の担当課と県教委の中の文化遺産課の連中でやるわけですけども、意見が一致しないですよね。膠着状態になって、結局は知事が土木部長と教育長を呼んで、言わば御前会議的に裁定をするという、そういうとこまで最終的にはいったんですわ。
【N】 結局、知事の考えがすごく反映された結果になったんでしょうか?
【O】 あの場面ではね。教育委員会は我慢しろ、というふうな。こちらも抵抗を極めて強くした結果、工事のやり方がだいぶ緩和されて、掘り下げるのが浅くなったりとか。向こう不平でしたけど、傾斜ができるんで。それから代替措置として、切り取った堤防の断面を移設する、と。で、他の場所に持ってって、こういう構造になってたんですよってことが分かるように、一種の史跡公園のようなものを作るということで妥協をしろ、というようなことに最後はなりましたかね。ただ、私としては非常にあれは苦い思い出ですね。上手くいかなかったというふうに言えると思うんですけども。
【N】 やはり元の形のまま保存されるべきであったとお考えでしょうか。そうしたお話以外にも、様々な文化財保護に関してはご経験されたことと思われるんですけれども、他にも同じような、そうしたコンフリクトみたいなことはあったんでしょうか?
【O】 それ程に顕著なことはなかったなと思いますね。エキセントリックな対立関係が表面化するっていうところまではいかなかった。事前に打てる手は打てたとは思うんですけども。ただその後64歳で教育長退任してからすぐに就いたポストは、県の文化財センターの理事長職なんです。これまさに文化財保護の最先端なわけで、そればっかりをやるようなわけですよ。
【N】 理事長になられていた際のご経験をお聞きしたいんですけれども。県の文化財センターはどういう活動をする場なんでしょうか?
【O】 これは財団法人組織になっていて、2つの部局、要するに埋蔵文化財部門と建造物の部門と2つ持ってるんです。各都道府県に似たような研究所とか何とかセンターというのがありますけども、2つの部門を両方持ってるっていうのは非常に珍しいほうの例じゃないかなと思いますね。それと同じよう、奈良県には橿原考古学研究所ってのがありますけども、これはほとんど埋蔵だけだし、京都府にも埋蔵文化財課ってわざわざそんな付けた課もありますからね。和歌山はその両部門持ってると。
【N】 和歌山に両部門ある、何かその理由は?
【O】 それは規模が小さいってこと、端的な理由だったんじゃないかと思うんですよね。だいぶ前にできてたわけでね。2つ作るとそれぞれ組織が大きくなりますからね。ただそれはそうであっても、例えば建物の保存は、保存、修理、工事。日本の神社仏閣ってのはほとんどが木造なわけですから、耐久年数がそう長くはない。屋根の葺き替えだって、極端な話20年に一度ぐらいは檜皮葺を変えないと駄目ですし、建物も腐食していきますから。そういう文化財に指定されている建造物の修復や保存のための工事、この専門的な技師が何人もそれに指導して宮大工さんを動かしながらやってく、それが1つと。
あともう1つは、土中にうずまってしまっている遺跡の発掘調査。これは随分、各所にたくさんの遺跡がありますから、まずその調査をする。それから、所有者の了解を取って農閑期などに、田畑になってる所は作物の作られていない時期に発掘をする、それを出土した遺物を保存して、中には壺、割れたのをくっつけたりもしますけどね、それを保存して記録に残すとかっていう。そういうので、かなり地道ではありますけど、重要な文化財保存のための最先端の仕事をしてたというふうに思いますね。
【N】 その文化財保存に従事した際の困難なこととかあったでしょうか、理事長をされた際に?
【O】 これは、いろいろ困難はもちろんある。そう言えば、予算の確保、それから所有者の同意を得ること、それからスタッフの不十分さをどう補うかってことなんかはありますね。私が力を入れたのは、人材をどう育てるか、と。ベテランの経験豊かな人たち、何人かもちろん各両部門におりますけども、その人たちに経験だけでやってもらうっていうわけにもいかない。新しい知識や技術を持った若手の優れた人材を補うってことがないと、惰性に陥ったりもしますから、そういう意味では人材の確保を私としては一番力を入れたつもりなんです。それまで何年間も新規採用してなかったのを、敢えてやろうじゃないかという。博物館、美術館の場合も学芸員ってのがありますよね。この人たちの部門が充実してないといい収集も、展示も、研究もできないわけで、事務部門だけで博物館、美術館も文化財保護も上手く動いてくわけじゃないので、いかにその専門のスタッフを確保して、それに経験積んでもらって成長してってもらうかという。人ですよね。
【N】 反対に達成感を感じたことっておありでしょうか?
【O】 それはいろいろ。達成感っていうか、文化財に接することによって得られる喜びと言っていいかな。ちょっと話、何十年も前に戻ってごめんなさいね。私がまだ小学生の頃、5年生だったと思うんですけども、よく学校の行事で修学旅行とか遠足とかあるわけですけども、5年生になったら必ず私の学んでいた左沢小学校という変わった名前の小学校では、行く所が決まってるんですね。それは隣の寒河江市という市にある慈恩寺っていう、「じ」っていうのは慈悲の「慈」と、恩人の「恩」。このお寺は奈良時代に創建された、行基という坊さんが全国各地に作ったお寺と言われてる所ですけども、東北地方で一番規模が大きいと言われるぐらいの壮大な面積と伽藍配置がある。ただし国宝にはなっていない、重要文化財でしたかね、本堂が、三重塔なんか。こういうものを、まだ小学生ですから、見る機会っていうのはなかったわけです。遠足で行ってあまりの立派さというか、それに驚嘆した。一種の慈恩寺ショックと言いますか。そんなことがずっとあって、文化財っていうのは偉大なものなんではないかなという。そういうことはやっぱじわじわと自分の中に、それに接することは喜ばしいことだという。のちに繋がったのかもしれないですよね。
あと、先生おっしゃった達成感という意味では、物事が成し遂げられたっちゅうニュアンスでお聞きになったと思うんだけども、それよりも最たるものは、やはり来年20周年を迎える世界遺産登録、これが実現したこと。これ、私の生涯の中でも極めて大きな出来事でして、達成感の最たるものですね。これだけでもかなり何時間もしゃべる中身があるわけで、そういうふうなことはかなりたくさんいろいろあります。
【N】 世界遺産に関してはどういう役割がなさったんでしょうか?
【O】 世界遺産登録のための和歌山県における責任者が私だったわけで、世界遺産推進室を創り、事務局と連携して人も集め予算も取り。紀伊山地の霊場と参詣道はご存じの通り、奈良県と三重県と3つにまたがるわけですから、他の県との調整ですね。足並みが揃わないと駄目ですよね。それから熊野古道ってのは参詣道ってのはたくさんの市町村に及んでますから、そこをちゃんと一緒に同じ歩調で歩んでもらわなきゃいけない、と。そういう点での、それは苦労と言えば苦労なんでしょうけども、それは甚大なものがありましたね。
【N】 ちょっと休憩をはさんでよろしいでしょうか。
【O】 どうぞどうぞ。
【N】 それでは再開させていただきますが、文化財保護の必要性に関して何かご見解があれば教えていただけないでしょうか。
【O】 なかなかこれは難しいご質問で、的確な答えができるかどうか自信があまりありませんけども。日本人にかなりしみ込んでいる習慣と言いますか、これに祖先、先祖に対する敬いの気持ちってのがあると思うんです。日本はいろんな宗教がありますけども、仏教に関して見ても、お経の文句やお坊さんの説法よりもどちらかと言えば、墓参りに行ってご先祖さんに手を合わせるということのほうが日常的になされてますよね。これはもちろんご先祖さんの力で今の自分たちの安全や将来の幸せを守ってくださいよ、ということでもあると思うんですけども、先祖っていうのは、何もこの血縁関係だけを指すわけじゃなくって、自分が今生きてる現代のもっと以前からずっと繋がってきている脈々とした流れの、その末端に自分たちが今いるということを考えれば、先人たちが行ってきた様々な生き方の集大成したものが、文化財ってかたちで残ってるんではないか、と。
そのことをより強く感じるようになったのは、文化的景観って言葉が出てきたんですよ。これは世界遺産を進めていく途中で文化庁が示した一定の見解の中に出てきて、これ一体何だろう、と思ったら、人間が自然界に働きかけて生業とする、例えば農業とか漁業とか山林業とか、そういう生業やら日常生活の中での自然界とのいろいろなやり取り、自然界の脅威、雷や地震や水害とか、そういうものに対する恐れ、おののき、そういうようなものがいろいろ複雑に絡み合って出来上がったものっていうのが文化的景観なんだと。景観というのは、景色ということではあるんですけども。
一例挙げれば、棚田ありますね、耕して天に至るっていう。和歌山県の場合は水田、あらぎ島なんかはあるとしても、この間も那智勝浦で棚田サミットってのがあったかな。もちろん和歌山県にも棚田はあるんですけども。それよりもミカン畑を目にすることが多いと思うんです。和歌山のミカン栽培っていうのは、ほとんど平地じゃなくって傾斜地、山の斜面を利用して、そのために土砂が崩れていかないように石垣を丁寧に組んでるんです。下津町でも有田市でも有田川町でも、ミカン畑で石垣なしではあり得ない、と。これをミカン山の景観、景色ですよね。これ明らかに文化的景観。
もちろん、神社仏閣の重要文化財のものがあるし、国宝があったり、これも文化財であることはもちろんだけども、そういうものを、先人が残してくれたもの、価値あるもの、美なるもの、それに対する敬意がベースだろうと思います。文化財保護をなぜしなきゃいけないのかということの根本はそこじゃないか、と。ちょっと大袈裟な表現を敢えてすれば、アイデンティティの問題なんじゃないか、と。自分たちが切り離され、突然ポツンと今いるわけじゃなくって、かなり濃厚な複雑な過去ってものが繋がってて、それに対する尊重する気持ち、敬意がなければものは失われていくだけだ、とかいうことなんですね。
さっきの生徒たちの話にちょっとだけ戻らしてもらうと、ある時、海南高校の生徒が日本史の授業始まる時に「先生、これ」って持ってきた物があるんです。見たら玉虫の羽、キラキラ光る。玉虫厨子という、慈悲の気持ちを表すためにお釈迦様が自らの体を虎に与えたという、それを貼った厨子があるんで、法隆寺に。そういう授業をした後で、生徒が「実は下津の長保寺ってお寺の石段に玉虫がたくさん落ちてる、そのうちの何匹かを持ってきました。これです」って言ってみえたんですね。これは国宝のお寺ですよ。その国宝のお寺とその生徒とそれを聞いた生徒たちは、これで繋がったな、ということになりますね。あのお寺は西暦1000年にできてます。長保2年、平安時代中頃ですけども、そんなこともあった。
それから、ある時また、これはもうちょっと前の桐蔭高校の生徒たちが夏休みに私のとこへ「先生、一緒に行ってほしいんだ」と。何だ、って言ったら「クラスで遠足をしたい。親や担任の先生からの許可を得るために、先生が行ってもらいたいんだ」と。付添人て言うか、おりますよ、という安心材料にね。どこ行くんだ、って言ったら、「奈良の石舞台古墳を見に行きたいんだ」と、明日香にある。今と違って、かなり自由に立ち入りできたんです。大きな蘇我馬子の墓ではないかという。古墳の土が取り払われて石だけ残ってる、その上に登れたんですね。よじ登るのはかなり大変だけども。そういう石舞台古墳に「自分たちで直接行きたい」と言い出してきた。
これはやっぱり、歴史を単なる教科書の1ページだけではなくて、自分たちも体感する。その中の1人として、歴史の中の自分という存在を意識してることになるのかな、という。これも文化財を理解し尊重し、それをいずれは大事なものというふうにして守っていくということに繋がっていくような気がするんですね。そういうことを、関心を持たない人、知らない人、あるいは様々な予算的なことだとかあって阻害されることも少なくありませんが。
文化財に対する意識が強いのは、世界の中で日本が特にそうだと言われているんですよ。世界遺産登録に加入したのは比較的遅かったんだけども、文化財保護ということから言えば、特にこれ和歌山県の皆さんにとっては申し上げといたほうがいいと思うのは、紀州徳川家の子孫が明治になってかなり落ちぶれてきます。その中でも徳川頼倫っていう15代になりますかな、この人は通称らいりんさんと呼ばれてますけども。徳川らいりんさんは日本の文化財保護の先陣をつけた人でして、1919年と言うから大正8年に、史蹟名勝天然記念物保全法という法律を作るのに最大限の力添えをして法律が出来上がったんです。これがちょうど100年ちょっと前ですよね。それがずっと引き継がれてきて、戦後昭和24年に法隆寺の壁画が火災で、全てじゃないけど大半焼失した。
そういう事件があったのをきっかけに、現在の文化財保護法ができる、昭和25年。1950年に文化財保護法ができる。それまではずっと徳川らいりんさんが尽力した文化財保護法が存続してたわけで。そういう国ってのはほとんど他に例がないんですね。だから大袈裟な言い方をするようですけども、日本という国は文化財保護の先進国であったし、今でもかなりトップを走ってるんではないかと思うんです。木造建築が多いしね、ヨーロッパのように、石で放っといてもいくらでも残っていくのとは違う、良くない条件の中で。よくスペインのサグラダファミリアが世界的に有名で、何百年もかけて建設工事が終わってない、修復しながらやってるって、あの根気強さとほとんど匹敵するぐらいの文化財保護のための営みと言うかな、これはあるんですね。
これをわれわれとしても現在どう引き継いでいくか、という大きな課題が突きつけられているというふうに、私は思ってましてね。そういう尊重する敬意をいかに持つかっていう大事な場面、生活習慣がどんどん変わっていって、建物も今風のものが一般的になって、激変が甚だしいだけに、著しいだけに、何が価値あるものか、何がどう保全しなきゃいけないものなのか、ということを見極めながら、大胆にいかないといかんなと思いますね。